そもそも「実行機能」とは何でしょう
実行機能とは、目標に向かって自分の思考や行動を調整する、脳の司令塔のような働きの総称です。おもに、ワーキングメモリ(必要な情報を一時的に保って使う力)、抑制(余計な反応や誘惑を抑える力)、切り替え(課題や視点を柔軟に変える力)の3つが柱とされます。楽譜を先読みしながら今の音を弾き、間違えたら止めて弾き直す——ピアノの練習は、まさにこれらを同時に使う場面の連続です。
「だから音楽は実行機能を鍛えるはずだ」と考えたくなります。ただ、こうした期待をそのまま結論にしてしまうと、それは「盛った」ことになります。ここでも、研究のデザインごとに「どこまで言えるか」を分けて見ていきます。
子どもを無作為に振り分けた研究では
音楽と実行機能の関係を、より強い形で調べたのが Bugos らの 2022 年の研究です。この研究の要は、子どもたちをくじ引きのように無作為に、音楽の訓練を受ける群・レゴを使った別の活動を受ける群(能動的統制群)・特に何もしない群の3つに割り付けた点にあります(無作為化比較試験、RCT)。
10週間ののち、音楽群では音程を正確にとる力とワーキングメモリの向上が見られました。能動的統制群(レゴ群)を置いたことが重要です。「ただ何か楽しい活動をしたから」ではなく、「音楽の訓練だからこそ」の効果を切り分けやすくなり、訓練が特定の認知機能を高めた、という因果的な主張がしやすいデザインになっています。
とはいえ、期間は10週間と短く、効果がどれだけ続くのか、学校生活など実生活にまで広がるのかは、この研究だけではわかりません。「訓練の直後に、特定の力が伸びた」ところまでが、誠実な読み取りです。
STUDY 01 / RCT(無作為化比較試験)
Bugos J.A. et al. (2022). Multimodal Music Training Enhances Executive Functions in Children: Results of a Randomized Controlled Trial. Annals of the New York Academy of Sciences, 1514(1), 79–92.
児童84名を音楽群・レゴ群(能動的統制)・無処置群に無作為割付し、10週間の訓練後、音楽群でピッチ精度とワーキングメモリが向上した。
この研究が言えること:能動的統制群を置いたRCTのため、「音楽訓練が特定の認知機能を向上させた」と因果的に主張しやすい。言えないこと:10週と短期で、効果の持続性や実生活への波及は本研究だけでは不明。
大人になってからでも、変わりうるのか
「感受性期がある子どものうちだけの話では」と思うかもしれません。そこで、大人——それも高齢の方を対象にした Bugos らの 2007 年の研究を見てみます。60〜85歳の、音楽経験のない方々を、ピアノの個人指導を受ける群と受けない群に無作為に割り付けました(小規模なRCT、31名)。
その結果、ピアノ指導を受けた群では実行機能とワーキングメモリの成績が向上し、一部は訓練が終わったあとも維持されていました。年齢を重ねてからでも、訓練による認知的な恩恵がありうることを、因果に近い形で示唆する結果です。年齢に関わらず「今から始める」ことに意味がありそうだ、と背中を押してくれます。
ただし、参加者は31名と少なく、大規模な追試で同じ結果が再現されるかは、これからの課題です。小さな研究の心強い結果を、「確定した事実」と受け取らないことも、また誠実さです。
STUDY 02 / RCT(小規模)
Bugos J.A., Perlstein W.M., McCrae C.S., Brophy T.S., Bedenbaugh P.H. (2007). Individualized Piano Instruction Enhances Executive Functioning and Working Memory in Older Adults. Aging & Mental Health, 11(4), 464–471.
60〜85歳の音楽未経験者31名を対象にしたRCTで、ピアノ指導群の実行機能・ワーキングメモリが向上し、一部は訓練終了後も維持された。
この研究が言えること:高齢者でも訓練による認知的恩恵の可能性を因果的に示唆する。言えないこと:サンプルが小さく、大規模な再現が課題として残る。
けれど、「頭が良くなる」への強い反証もある
ここまでは、音楽の訓練が特定の認知機能を高めうる、という肯定的な結果でした。しかし、都合の良い研究だけを並べるのは、私たちのやり方ではありません。この分野には重要な反証があります。
Sala と Gobet の 2017 年のメタ分析は、音楽・チェス・ワーキングメモリ訓練の研究を統合して分析しました。すると、効果の大きさは研究デザインの質(きちんとした能動的統制群があるか)と逆の関係にあり、質の高い研究ほど効果が小さく、音楽から一般的な認知能力や学業成績への「遠い転移」——遠く離れた能力への波及——は、ほぼゼロだったのです。
これは「音楽で頭が良くなる」という広く聞かれる主張への、強い反証です。ただし注意深く読む必要があります。この分析が否定しているのは、あくまで「遠い転移」です。音楽の訓練が、音楽に近いスキル(音を聴き分ける、リズムをとる等)を伸ばすことまでは否定していません。近くへの効果と、遠くへの波及は、切り分けて考える——ここが、この反証を正しく受け取る鍵になります。
STUDY 03 / メタ分析(反証)
Sala G., Gobet F. (2017). Does Far Transfer Exist? Negative Evidence From Chess, Music, and Working Memory Training. Current Directions in Psychological Science, 26(6), 515–520.
音楽・チェス・ワーキングメモリ訓練の研究を統合すると、効果量は研究デザインの質と逆相関し、質の高い研究ほど効果が小さく、一般認知・学業への「遠い転移」はほぼゼロだった。
この研究が言えること:「音楽で頭が良くなる(遠い転移)」への強い反証。言えないこと:音楽に近いスキルへの効果までは否定していない。近接効果と遠い転移は区別が必要。
研究が言えること
- 能動的統制群を置いたRCTで、音楽訓練の直後にワーキングメモリ等が向上した
- 高齢者でも、ピアノ訓練による実行機能の向上が示唆されている
- 音楽に「近い」スキルへの効果は、比較的認められている
まだ言えないこと
- 音楽で一般的な知能や学業成績が上がる(遠い転移)とは言えない
- 短期研究が多く、効果の持続性や実生活への波及は未確立
- 質の高い研究ほど効果は小さく、サンプルの小ささも課題として残る
それでも、練習を続ける時間そのものに価値がある
実行機能が伸びるから、頭が良くなるから——練習をすすめる理由を、私たちはそこに置きません。うまく弾けない一節に、あきらめずに向き合う。集中が切れそうな自分を、もう一度鍵盤に戻す。その積み重ねの時間そのものが、子どもにとっても大人にとっても、かけがえのない体験だと考えるからです。認知機能の変化は、その道のりに残るひとつの足あとであって、目的ではありません。
だからこそ、私たちは科学を盛りません。研究が言えることと、まだ言えないことを、そのままお伝えする。都合の悪い反証も隠さずに並べる。それが、音楽の力を目に見えるものにしながら、音楽と長く付き合っていくうえでの、いちばん誠実な向き合い方だと考えています。